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知っておきたい
平成建設創業ヒストリー。
なぜ職人を育成するのか?

現場にふらりと遊びに来られたお施主様に大工が大きな声で挨拶し、丁寧に現場を案内する。平成建設の現場では珍しくない光景です。しかし平成建設社長・秋元が営業マンだった時に見た光景は、それとはまったく違うものでした。平成建設の代表取締役社長であり、創業者である秋元がなぜ大工や職人を育てる会社を設立したのか、自身の言葉と共にその真意に迫ります。

当時の建て方の様子。1948年秋元は代々大工の家に生まれる

代々大工だった家に生まれ、幼少期から大工が身近だった秋元。大工がいかに面白くやりがいがあるか、どれくらい素晴らしい仕事を成し遂げているのかを目の当たりにしていました。
――
秋元:父は弟子を多数抱えていて、夜はいつも仕事の話で盛り上がっていた。『久雄。俺たちはな、仕事が楽しくてしょうがないんだ。家を建てた後は達成感があるし、お客さんにも喜んでもらえるし。こんないい商売はないぞ』と。

家業が倒産し、大学進学を諦め自衛隊体育学校へ
ウェイトリフティングの選手として活躍

その後、高校入学の同時期に実家の工務店が倒産。卒業後は大学進学を諦め自衛隊体育学校に入学。
――
秋元: 中学時代は勉強のできるもやしっ子のようなタイプで、ウェイトリフティングを始めたのは、それを克服したかったから。自衛隊体育学校にはトップクラスの選手がゴロゴロいて、その環境の中、必死でトレーニングをした。オリンピックの夢は破れたけど、不得意なことでも一生懸命努力すれば全日本クラスまでいけたんだと思うと自信がわいた。これはもう何やっても出来るかなって。

営業マンになった秋元はトップセールスに

社会に出てからはデベロッパーとハウスメーカーで営業マンとして活躍。いつもトップクラスの営業成績を収めていました。そんな時、平成建設創業のきっかけにもなったある光景に出くわします。
――
秋元: マイホーム完成を心待ちにしたお施主さんを現場に案内した時、施主の質問を無視した大工がいたんです。その時の施主のがっかりとした顔が忘れられない。こんなことでいいのか、親父の言っていた大工の仕事の誇りは、どこに行ってしまったんだろうかと 。

金を残して死ぬものは下 仕事を残して死ぬものは中 人を残して死ぬものは上
後藤新平の残した言葉は、後の秋元に大きく影響を与えます。
※後藤新平: 医者であり政治家で、関東大震災の復興を担った人物

秋元: 後藤新平の言葉にあるように、自分も人を育てなくてはと思いました。幕末、松下村塾を開き、高杉晋作など維新の英傑を多数輩出した吉田松陰の真似ごとくらいしなくちゃと。それで大工や職人を育てる会社を作ると決めたんです。知り合いの社長何人かに相談したところ10人中10人が反対。それを聞いて心のうちで歓声を上げたね。この人たちは真似しないな。だったら一人勝ちだ!と思いましたね。

大工という職業が廃れ、日本の優れた職人・建築文化が滅んでしまうと、危機感を抱くようになった秋元は、自ら起業し職人を育てることを決意するのです。

創立式典での集合写真

そして平成元年、平成建設は創立されました。 2000年から本格的に、大工の育成を始めます。

現在、全社員数の4割を職人が占めており、その数は200人を超えます。
さらなる高みへ、目指すは1000人。

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