きりとられるモデルと柔らかな持続 | 藤沢SHOWROOM通信 -平成建設藤沢支店ブログ-
雑記

きりとられるモデルと柔らかな持続

建築の設計の際に作る模型を、モデルと呼んだりします。発泡スチロールや段ボール、木や粘土など材料にする素材は様々ですが、なるべくなら加工しやすいものが好ましい。それは作ると同時に、ああでもこうでもないと作り変えるのに、抵抗が少ないからです。最終的な完成形はこのようですと、クライアントにプレゼンテーションするため、と言うよりは家の制作にかかる前にデザインの違和感を減らす目的で作る模型だから、スタディ模型と呼ばれたりします。

 

モデル化されて形になると、多くの人の目に触れることになるため、共同制作しているメンバーや、時にはクライアントも交えて、自由な意見交換をしやすくなるメリットがあります。目で見るだけでなく触れることもでき、より多面的にモデルと向き合うことも可能になります。

住まいは人が中に入れるぐらい大きいものなので、サイズを縮小してモデルは作られます。設計の初期段階では、周辺にすでに立つ建物や土地の起伏などを再現するため、二百分の一ほどの細かい縮尺を採用します。二百センチつまり二メートルが一センチになるわけです。さらに詳細の設計に入っていくと、室内の窓の位置や家具の配置を検討できる、五十分の一程度の大ぶりな尺度となっていきます。

 

同じ形をしていても、スケール感が異なることで、読み取れる情報は微妙に違ってきます。自身の敷地だけで完結せずに周辺環境まで含めて引いて眺めた時に気付かされることがあり、またクローズアップして室内と屋外の境界にある壁の特質を明快にすることで帰結する素材の選択があります。

 

写真家や画家が作品を制作する際に対象とするモデルが急に別人になったりしないのと同じように、スケールが異なっていてもキャラクターとも呼べるぶれない気質のようなものもあります。変化するものしないもの、その両者に配慮しながら細部を調整してゆくことがデザインの肝になります。

ゲルハルト・リヒター氏は1932年東ドイツ生まれの画家です。一見写真にしか見えないけれど油彩画として描かれている彼の作品は、実際のところ写真を忠実に再現しようとしていますが、スーパーリアリズムと分類される他の絵画と一線を画しています。そこに作者の自意識読み取らせない周到な予防線が張り巡らされているためです。モチーフに込められた作者による恣意性を極力排除することで、写真と絵画がそれぞれメディアとして発する力学により注視させようとしています。

 

写真は風景や人物のある一瞬を切り取って写しとります。三次元に広がる世界を二次元の印画紙に定着させるわけですから、盛り込める情報量の劣化は否めません。いくらデジタルカメラの解像度が増したとしても、滑らかに連続するひとつながりの時間の流れに沿ってある目の前の現象を、全く同様に再現することは困難です。写真というメディアはその不可能性を、人間の限られた生というものがもつ刹那さの隠喩として提示されるからこそ、情緒の揺らぎを喚起するのかもしれません。

 

絵画は、油絵の具でも水彩でも構いませんが共通する特性は、筆でキャンバスに時間をかけて色を定着させる行為です。出来上がった絵画を眺める一瞬間の中で、制作の過程である筆の軌跡が醸し出すマチエールから、持続した時間の余韻を鑑賞者は読みとることができます。

写真を絵画として描くことによってリヒター氏が目指したのは、写真というメディアが得意とする感情の起伏を誘導する力学をなるべく起動させず留保させておきながら、絵画というメディアが持つけっして鋭利ではないが柔らかに持続する効果を誘引する、といった手法ではなかったでしょうか。なぜそのような回りくどいことをしなければいけなかったのか、そこにはいろんな歴史的・地域的な解釈の余地があるのでしょう。

 
風景の中に懐かしさを喚起する要素があって、それを抽出したものを設計に取り入れればそこに原風景が定着する、それほどものづくりは単純なものでないかもしれません。モデル化することで一度切り取った世界観を、もう一度生身の身体にどんな風に折り返せば、遠くの誰かの共感につながる端緒を感じ取ることができるのでしょう。