何度も読み返したくなる本や、見返したくなる映画があるように、何度も繰り返し帰ってきて、また出かけても行く起点である住まいは、華美でなくとも安心感を与える拠り所となれば好ましいでしょう。流行のスタイルや最新の機能を備えた設備は、あればそれはそれで魅力的であるとしても、時代が求めるものの変化は目まぐるしくて、先を予想して準備していたものが、案外想定通りにいかなかったりするものです。
作り手は、住まい手の快適性に確実に効果を及ぼすであろう骨格となる部分に、直接的に求められていないとしても自身の職責として、時代の変化に流されない核となる要素を、表立った形ではないところで設計の中に盛り込んだりもします。
マンガ家の萩尾望都氏が2009年イタリアのナポリ東洋大学で行った講義録が単行本となっています(「私の少女マンガ講義」(新潮社))。1969年にデビューした氏が40年ぶりに「ポー一族」の新作を発表したことは、NHKでも取り上げられるほどの社会現象となりました。講義は、少女マンガが世界に影響力ある文化の一つとして成熟してきた変遷を、自作に限定しない俯瞰した視点で紹介しています。
氏がデビューした当時は少女漫画の描き手は男性が主流であったこと(「リボンの騎士」の手塚治虫!)、そして1960年代中頃から経済成長に合わせて増えてゆく雑誌社が新しい作家を募集し10代の女性マンガ家を次々とデビューさせていく流れと、一方編集者が求める作品と描きたいものの乖離から、発表の場をコミケで販売する同人誌に移していく流れなどを、日本の社会背景を踏まえながら紹介しています。
その中で、「コマ割り」と呼ばれる画面の分割手法についての話があります。マンガは、縦横ときには斜めの線で紙面を分割し、その枠取りの中で登場人物や舞台となる背景を配置し、ストーリーを流していきます。分割の方法に法則はありませんが、基本的には上から下に、右から左にコマを追っていくことでストーリーは流れていきます。
隣接するコマ同士の枠は、重なることはなく隙間を残しています。その隙間がより狭いほうが時系列として早く連続しているものとみなして、先に読み続けていけます。時にはコマで枠取られないページの「図と地」でいう地の部分に、直接描かれた絵の上にコマを載せるように配置し、平面の前後関係で順序を示すこともあります。
コマの分割の仕方には作家独自の息遣いとも呼べるリズムが、如実に現されています。「読んでいて気持ちのよいマンガには、ストーリーの魅力や絵のうまさはもちろんですが、何よりコマ割りの気持ち良さがあります。」(前掲書より)雑誌に掲載する前提がある以上、マンガは枚数に制限があり、その中でストーリーを完結させなくてはいけないため、全体像を意識しながら紙面を分割していくことになります。
ページをめくる動作の後にどんな展開を持ってくるかも重要です。紙面を四角いコマで分割すると同時に、分割しない一辺を作ることでページの外にまで広がりを意識させる手法も効果的です。モノクロが基本ですが、シーンの展開に沿ったリズムを生み出すために、背景が白地から黒地にテンポよく反転したり、トーンと呼ばれる細やかな柄や模様で繊細なグラデーションによる面を構成したりします。物語の結末を知った後で見返してみても、紙面に溢れる生き生きとした登場人物の躍動感が、繰り返し再現されることが可能になります。
男性誌に載るマンガにももちろんコマ割りはありますが、少女マンガのコマ割りは心理的情報量が多く多次元的な想像力が必要とされるため、一定数の男性には理解しづらい面があるようです。
作家がそれぞれ独自の世界観を表現しているにもかかわらず、少女マンガというジャンルとして成立している状況は、遠いイタリアから眺めると特殊な状況であることも、萩尾氏の講義を主催したジョルジョ・アミトラーノ氏が冒頭書の巻末に寄せた一文から、興味深く伺えます。
読者に近しい感性がみずみずしいままに作品として生み出されていく少女マンガの自由さは、新陳代謝が衰えていきがちな組織の血液を活性化させうるヒントに満ちた鉱脈として眺めることも可能かもしれませんが、その視線の在りようへの違和を、まずは問い返されている気がします。