雑記

原風景の記憶

見覚えのない着信のナンバーは前職の同僚からのものだった。最近転職をして近況連絡とのこと。仕事で毎日顔を合わせていたのが、職場が変わるとばったりと縁が切れてしまう。組織で働く上でよくあることだ。よほど気の合う人であれば、辞めてしばらくも連絡を取り合って飲みに行こうとなくはないが、持続することは珍しい。顔は印象に残っていても、名前が思い出せなくなるのは頻繁だから、相手にとっての自分も同じぐらい希薄な存在になってしまうのは仕方がないことだ。そのようにして毎日積み重なっていくものを仕分けし、優先順位をつけながら僕らは生活を日々営んでいる。

流れる雲も寄せる波も毎回同じ形はないはずなのに、一つの空だし一つの海だ。その一瞬一瞬の光が透過し反射し拡散する戯れはかけがえがないけれど、振り返って何度も再現することは難しい。だから自分のものに囲い込もうと、写真を撮ったり絵に描いたりするが、包まれている時間の流れまで印画紙やカンバスに定着し得るのは、一部のプロフェッショナルな技術者に限定される。彼ら彼女らに共通する資質は、情報を届ける相手、ときには不特定な多数に向かわざるをえない時も、そこにいるはずの独りの受け手である想像の観客に対し、上からでも下からでもなく同じ目線であろうとする姿勢。

 
「奇跡」は、是枝裕和氏が監督を務め2011年3月12日に公開される予定の映画だった。両親の別居がきっかけで福岡と鹿児島に別れて暮らすようになった小学生の兄弟を軸に、それぞれ同窓の仲間とともに新幹線開通の機に、各々の願いごとを携えて落ち合い、根拠のない成就に期待することなく、現実の世界の有り様を受け入れる、そんなストーリーだ。自身もあの頃からそんな風に世界の広がりをぼんやりとながら地図にしてきたのだったか。「世界の全体性への予感」(ペーター・ツムトア)

同じ場所、同じ時間を共に過ごしていたとしても、果たして世界は同じ一つなのだろうか。それぞれが抱く世界の像は、限りなくたくさんあって一つとして同じものなどないのではないか。おそらく見方の違いに拘泥するべきではないのかもしれない。世界の眺めは汲み尽くせず、そこにある息遣いに耳をすましても語りかけるものなど何もないのか。

 
記憶に遺伝があるらしい。「DNA自体ではなく、DNAの働き方を調節する情報が隠れた形でDNAに書き込まれていることがわかってきた」(「動的平衡3」福岡伸一著)例えば楽譜に速度記号のモデラート:中くらいの速さでと欄外に付け加えるように、大元の設計図に変更を加えることなく「よりよく生き抜くための適応的な形質を獲得する。」(前掲書)自分自身で様々な経験をして学び身に付けてきたと思っている感性みたいなものも、意識せず綿々と先人から受け継いできたものに影響されていたりするようだ。でなければ、唐突に出会う美に共感するということもないのかもしれない。そしてリズムやテンポといった身体性にこそ、普遍的な懐かしさの起源があったりするのだろう。

住まいの原風景を形にしたいと願ってきた。人それぞれに懐かしさの拠り所があり、そこを端緒として底辺に流れる快適性の根拠をあぶり出せたらと思う。設計図を描くときも現場監理に赴くときも文章のつづり方も、等しい向かい先。