厳選なる抽選の結果当選ですとメールが送られてきたのは昨年の九月二十五日、開催日までちょうど五ヶ月ある。フルマラソンどころか、今まで十キロ以上の距離を走った覚えはない。42.195㎞の所要時間をあらかじめ聞かれるのは、走者のレベルごとスタート地点で領域を分けるためだが、経験がないものを一体いくつと答えたものだろう。三万人という参加者以上に一万を超すボランティアの数に驚かされる。東京がひとつになる日、スタートは二月二十五日、九時十五分。
東京マラソンとは縁があったのか、かつて南桂子の版画を各部屋に掛けたという日比谷公園に近い趣味の良いホテルに六、七年前泊まった日も、期せずして沿道に多くの人が溢れていた。ロビーですれ違うスポーティなウェアに鍛えた細身の宿泊客は、今思えば海外からの招待選手だったのかもしれない。
小学校の頃に二キロのマラソン大会に出場した。出発地点の校庭から小高い山の周囲を一巡する。意識して目指した訳でもないのに途中まで先頭を走っていた、なんとも不思議な感じが残っている。本来自分がいるべきでないところになぜか居てしまっていることへの違和感。
都庁を見上げるスタートラインを超えてからしばらく下り坂ということもあって、スマホが示す1㎞あたりの平均時間はいつもより1分以上も早く、慌ててペースを落とした。一月前にレース馴れを目的に出場した湘南市民マラソンでは周りの動向がやたら気に掛かったものだが、今の所自分自身の走りに意識は配分できているようだ。この先の行程は自身の身体にとって初めての体験ではあるけれど、それは毎日の生活だって似たようなものだ。
新しい町、新しい人、新しい仕事、普段身近な人の意外な一面、昨日までとは違う夕焼けの赤と黄色と沈んでいく青の構成に、驚かされながら日々を過ごしている。市民マラソンに制限時間があるように人の生にも間違いなく限りがあって、けれどもいつまで続くかの思惑は必ずしも施行されるわけでもないのに、いろんな括弧を担保に入れて僕らは暮らしを立てている。
東京の街に様々な制限をかけて準備されるマラソンは、折重なる連続体の一つの区切り方だ。枠取りが景色に新たな様相を付加する。じゃあ半日かけてここからここまでをみんなで走ってみようか、というただそれだけの思い付きに、気持ちの出処は良く分からねえが頑張りたいってんだったら何はともあれ応援してやろうじゃないかという気概に驚かされる、暖かな沿道からの声援、差し入れの数々。お遍路さんへのもてなしに近しいものかもしれない。
三十二キロの給水所でかけられた声が耳に残る。「ここで無理しない・・」あと十キロだからなんとか乗り切れると、かろうじて残る貴重な燃料の備蓄を浅はかに浪費せず、自らに課したペースを波風立てぬよう一定に保ち続けること。呼吸を整え、リズムを正確に刻みながら。
頂上を目指して登り着いた高台から街を見下ろし、そして下山したあと見返す山は自身が辿ってきたばかりなのに、すでに遠く遥かな存在だ。平坦な地面を走るマラソンは振り返る稜線はないけれど、見上げる空はひとつながりだ。距離に比較するならほぼフラットな平面を単調に歩を進めていく様は、属する文化や役割の違いを平坦に均してくれる。
見通し易く広がる視界は、走る人—応援する人—支える人の立ち位置をシンプルに関係付ける。長く走り続けることで均される平地、展かれるパノラマ。母と子が歩道から差し出す梅干し、受け取るランナー、予兆された終着地点。