テレビは持たないことにしているのは、嫌いだからではない。あると際限なく見続けてしまうのだ。番組をじっくり、ということでなくただチャンネルを回し続けている。電車からの風景が流れて移ろうように、ただ漫然と視野に納めていることが多かった。だから旅先の宿で新鮮な気持ちで鑑賞の時間を持つのだが、そんな稀な時に限ってウィンブルドン決勝でロジャー・フェデラーが出ていたりする。冬のオリンピックもほとんど社会人になってからは観戦の機会もなく、最も近しい記憶は1988年のスピードスケート500m黒岩彰氏の銅メダルだ。
フィギュアスケートのキム・ヨナ選手も、最盛期を過ぎたソチオリンピック前の休養期間の頃何かの拍子でたまたま見かけ、驚愕し、魅せられた。最後の五輪フリーでのピアソラに寄せた演技もLIVEでの視聴は叶わなかったけれど。
好きな食べ物は、旬なものと答える。その場所でその時だからこそ手にはいるものの中で、最大限のパフォーマンスを提供し得るものは、当然生き生きと輝いている。旬なもの、という評価軸はあくまで自分自身の中での比較であって、何かと何かを比べてということではないのが大事だ。輝き方も千差万別だから、ある時に最高だと思っていたことが、時代を経ることによって尺度が変化し、別のあり方が別の意味で評価されることもあるだろう。見方を変えれば、いつからでもどこからでも、新たに見出された世界観に相応しいベストな状況を生み出す余地が残されているということだ。
スピードスケートの小平奈緒選手に注目したきっかけは、新聞記事での彼女のコメントだ。「創るという漢字は、キズとも読む。何かを得るためには痛みを伴う。」(2017年11月14日東京新聞より)水は高いところから、低いところに流れていき、いずれ水平な面を形成する。作用、反作用。
建物の設計は、基本的には与条件へのリスペクトから始まる。その場が持つ均衡に耳を傾け、場の持つ様々な力の流れに身を委ねる。そして新たに求められる要望により、元ある力の流れのベクトルをさらに躍動感あるものへと加速させる場合もあれば、うち消す逆のベクトルを導入しピンと張った緊張感あるフラットな面を構成するケースもあろう。
小平奈緒選手のスケーティングは、とにかく大きい。体格は欧米の選手と肩を並べたなら驚くほど小さいのに、なぜか氷上では誰よりも巨大に感じられる。JR辻堂駅のホームから見える富士山も大きい。ビルの合間に望む月も大きい。それは何かと比較してではなくあくまでもいつか見た富士であったり、いつか見た月との印象の違いだ。
躍動を生み出し限りなく大きなストロークで滑走する身体のパフォーマンスの背後には、削り重ねてきた精神の傷みと他者との対話が見え隠れする。