雑記

デザインの「リフレイン」

惹かれるデザインや人との出会いには、要素を足したり減らしたりするだけでは生まれない、内在された引力を感じさせる力がある。

月の満ち欠けは、時間は移ろっていくものだと教えてくれる。新月から徐々に光が球体に満たされていく速度は一定だとしても、実感として生を刻むリズムには起伏があり伸び縮みがある。満月を眺めたことがなければ欠けていると気づかないかもしれない。三日月は満ちていく途上だ。
自身の死を知りえない僕らにとって生を円環として眺める事は不可能だけれども、ふとした散策路で聞こえ出すリフレインはかつての遠くにある情景を親密に再現してくれる。

鎌倉市川喜田映画記念館にて、黒澤和子氏の「映画衣装⭐事始め」と題されたトークイベントがあった(⭐の茶目っ気︎がいい)。氏の映画衣装デザイナーとしての特異さはすでに述べた。黒澤明の長女としての生い立ちがどのように現在に地続きであるかを紐解く所作に魅かれた。映画にとって監督は船長で、自分は奥行きを確かにすることが使命だと言い切る謙虚さと奥深さが印象に残る。自身が三十歳の時に母を亡くした。その後父親の悦ぶ顔を見ることに尽くす事が始まりだった。遡れば映画人に囲まれ育った幼少期の心象風景が、なりわいとして立った撮影現場に郷愁を覚えさせた逸話につながる。

何百着というスーツを日本中のテーラーを抑えて短期間で仕上げた逸話や、よごれと呼ばれる役柄に合わせた経年変化を生み出す過酷な作業量や、経験の中で培った、画面上での効果を計算した上での配色の技法など汲み尽くせない舞台裏があったとしても、衣装は映画の中でほんのわずかなパートの占めているに過ぎない、映画製作に必要とされるもっと大事な他の作業のために、衣装合わせを短時間で的確に行う事、それが職人としての自分の役割だと言い切る。次回の大河ドラマやクランクインしたばかりの現場の合間を縫って駆け付けた氏は、自身の活躍はさておき、最後に何より「映画」をよろしく、と言い置いた。

 

映画という大きな河の流れの一部に立ち映画を撮る是枝監督を思い起こさせる。最新作である「三度目の殺人」(もちろん衣装は黒澤氏による)から聴こえてくるのは、神の視点には立たずあくまで私も観客であるあなたと同じ立ち位置から同じ向きで世界を眺めて、共に思い悩みまた時には楽しんでいるのだという声、息遣い、手触り、これらがスクリーンを通して届くのは希有なことだ。ここに複製技術時代の芸術である映画の可能性のひとつがある。


建築が芸術かどうかはさておき、デザインを作り出す現場では出来上がるものが及ぼす影響の範囲をどこまでとして着目するかは重要だ。過剰な期待は身の丈に合わない齟齬をも生じさせてしまう。人の住まいに必要とされているのは、柔らかで不測の変化も起こりうる生活に指針となる補助線を引き、時に荒ぶる自然を光と風通しの良い空間に調整する役割だ。円はやがて閉じられていくのだとしても、光に照らされる表象は記憶の底に向けての奥行きにリフレインを反響させている。