ここ半年ほどバレエ教室に通っているが、心得があったわけではない。きっかけは1999年に水道橋のアテネ・フランセで開かれたアメリカン・バレエ・シアターのドキュメンタリー上映に合わせた三浦雅士のレクチャーにさかのぼる。三浦氏は「現代思想」や「ユリイカ」の編集長を歴任した文芸批評家であり、ダンスマガジンというバレエ雑誌の編集長も長く勤めていた。思索と舞踏との関係性は一見希薄に感じられるが、彼の語りには博識に裏付けされた鋭敏な批評性と、聴く者の琴線を共振させる躍動感が並存している。精神性と身体性を両輪としたユニークな文体の秘密がそこにある。
バレエのレッスンでは、頭と体をいかに一致させるかに意識的であることを求められる。肩を上げずに腕を回す、ただそれだけの事だが、僕たちは自身の体を思ったほど自由に扱えてはいない。真っ直ぐに立つという姿勢ですら筋肉への指令で表出される形と、イメージされる理想系とのギャップがある。近いようで遠い隣人、それが僕らの身体だ。
バレエに興味がある男性というだけで、少し変わった人だという風に見られるし、そもそも男性に積極的に入会を勧める教室は残念ながら少ない。たまたま知った今のクラスは少数派である男性を歓迎してくれている(おそらく?)。その分け隔てのないスタンスが誰にとっても気兼ねのない雰囲気を生み出していることは、女性にとってもハードルが低いのかもしれない。昔から興味はあってもなかなか始める機会がなくてという場合もある。もちろん年齢や社会的地位を問われることもない。
どんなに初歩的で単純な動作であっても、必ずクラシック音楽に合わせた一連の流れで指導が行われる。講師の手本を真似て動きの順序を覚えるのに気を取られながら、耳にしたことのあるフレーズに身体の動きを合わせることの心地よさ。一つの単純な動作にも、将来の複雑な表現に向けてどんな意味を持っているのか、的確に説明がある。指はそれぞれ自立した向きを目指しながら一つの手として総合されることで生き生きとした表情を得る。
埼玉県の宮代町に進修館という名の公民館がある。象設計集団という名護市庁舎の設計で有名な設計事務所による作品だ。1980年竣工のこの建物に関しては設計者の丁寧な解説がホームページで見ることができる。有機的なデザインはみなぎる生命力を発揮しながら、記憶に残る出来事が生まれる場所として街に溶け込んでいる。
進修館から50メートル離れていない敷地で住宅を設計したことがある。住まい手の身体性を刺激するような建物になればと願った。間口に対して南北方向の奥行きの深い敷地で、エントランスを挟んで左手がパブリック、右手がプライベートな領域とし、二階には子供室を配した。二つの領域の間に中庭としての外部吹抜け、室内吹抜け、階段を設け、切り離された領域を相互に行き交う視線、動線、光線の交錯を意図した。
必要な部屋をパズルのように組み合わせても、住まいは構成できるかもしれない。身体性云々ということを棚上げしても日々の暮らしは滞りなく過ぎていく。気の置けない隣人と過ごす食事の時間を惜しむのは、他者へのそして自身への身体感覚への配慮があってのことだ。なかなか全てが万端というわけにはいかないけれども。