行きつけの本屋に併設されたギャラリーで丸いパンを描いた小さな絵を見つけた。おそらくパンだと思う。そうだと断定できないのは、たまたまパンの形であるにせよ、主題は別のところだという視覚に現れ得ない予感に溢れているから。少なくともアットホームな朝食のひと時を演出しているわけではない。パンは籠に盛られることなく平面に折り重なるように転がりつつ、微妙な遠近法の歪みを宿す。
芸術と呼ばれるものはいろんな種類があって、大勢に異議申し立てする種類のものもあれば、自然に拮抗する生命の発現を宿していたり、相対するものの心を揺さぶったりもする。美術館で眺めるのと身近に置いて日々の生活を共に過ごすのとは、測り択ぶ尺度は異なるかもしれない。そばにずっと置いておきたくなる種類のアートとはどんなだろう。
六つの丸いパンと、ランチョンマットなのか特定はできないレッドオアーカーに彩色された平面は、何かを声高に主張したりはしない、かといって伝統的な静物画の範疇からも少し逸脱している。それぞれのパンには焼かれ膨らんだ白い裂け目がある、背後に隠れた朝日が光を染み出させる雲間のように。
平成建設に秋の芸術祭が訪れた。在籍するスタッフが平面部門、立体部門、手芸部門に分かれ、自らの手による芸術作品を出展する。普段生業としている建築デザインや大工技術や接客技術で培ったセンスを、ものつくりの場で競う。展示は沼津の本社から始まり、厚木支店に巡回する予定だ。審査は社員の投票によるから、バイアスがかからないよう匿名が原則となっている。
鎌倉の大町にある「文海堂」は、画材も扱っているが豊富な額の取り扱いで、プロの画家からも支持のあるお店。駅から5分程度の好立地でありながら川沿いに立つことで喧騒を免れている。自宅併用のビルは不思議な階構成を取る。入るとすぐ様々に額装を施された絵画やポスターの展示スペースが通りに向けて広く開かれている。そこから階段を半階ほど下がった所が画材や額の並ぶメインフロアだ。
川に開かれた空に向けてハイサイドライトが、長い枠材のため必要とされた高さに効果的に配されている。材料の劣化を踏まえればガラスからの日射取得は有利ではないが、それを補って余るだけの開放感は秀逸だ。さらに奥にはもう一つ階段があって上階の自宅スペースに繋がっていて行き止まり感がないのも良い。
店の目的は絵に合う額を提供することであるが、そのためには持ち込まれた画が、まず映えて見えるための空間が必要だ。その条件のもとで初めて良い額装が選ばれる。この場所が自ずと美術館に近い空間構成になった所以であろう。
自身で手掛けた銅版画を大きな作業台に並べ店主と共に額を選び出すのに大した時間はかからなかった。問題は台紙である。額と絵の間を埋める余白のスペースをどのようなテクスチュアの紙とするのか、色はつけるのか、絵に馴染ませた方が良いのか、いや縁取りとしてコントラストをつけるのか、その如何により鑑賞する相手に届く言葉の響きは変わるだろう、吸音材の角度を調整しながら残響時間をコントロールする音楽スタジオのように。
射程がどこまで届くかはさておいて、芸術は永遠を志向する。ありのまま曝け出された生の現実を、飼い馴らして提示しなければその存在すら感知されはしない、のだとしたら生け捕る枠組みは善悪の範疇を超えデザイナーの職域へ移行する。心身に留意し確保した僕らの内部の空き容量は、ありのままの率直さを愛おしむに足りているだろうか。丸いパンの絵に額装は未だない。