雑記

「本棚」とデザイン

書体がゴシック体か明朝体なのかで、文章を読んだ印象がまるで異なることがある。縦書きか横書きかでの変化とも違う。文体と書体の相性のようなものがあるのかもしれない。ありのままの想いを伝えやすいのは肉筆だとしても、遠くにいる未来の読み手に届けるには、規格化されたフォントの活用は効果的でかつスピーディな選択肢だ。

 

 装丁というブックデザインの領域では、紙を媒体とした視覚的なレイアウトを駆使し肌触りとも呼べる文体が宿す身体性を、いかに読者に響かせられるかが課題となる。折々に読み返すことで普段のリズムを取り戻すきっかけとなる本があり、手にした瞬間手に入れたもののうずたかく積み重なったままの本があり、読み終えるのが惜しくて少しずつ読み進め楽しみを先送りにする本が、僕らの生の一部として定位する。

 味わうべき中身は文章であるからどんなお皿に盛られていようが、というわけではないことは日々の器こだわりに際限がないことから思い当たる節はあるだろう。料理や文章を作ることは芸術の領域かもしれないが、相手に向けていかに卓上に供されるかはデザインの領分だ。

 

 文豪の書斎にひっそりと佇まいを残し保存されている本棚は、褪せたセピア色のグラデーションに彩られている。今時の本屋に並ぶ背表紙のデザインが止め処なく不揃いさを濫立させるのは、作家ごと分野ごとで配列されているためだけでなく、他との違いをなるべく際立てようとする送り手の過剰な意図が潜んでいるのかもしれない。

 三浦雅士の評論集は、アイボリー色の地に明朝体を配し飾り気を排除した装丁だ。隣接する他の本からの突出を避け印象の段差をなだらかに均すことで、逆説的にその存在感を際立たせている。

 

 螺旋階段の外周が全て本棚で埋め尽くされた家がある。奇を衒わない上質な作品を多作する建築家の手によるものだが、円周の中心に向けて集約される雑多な背表紙の止め処なさに戸惑いを覚える。一冊一冊を手に取ってみるとそれはそれで素敵なかけがえのないものであっても、脈絡ない配列はおぞましいものだが案外日本の街並みの様相に似通っているのかもしれない。向こう三軒両隣りという言葉も耳にすることが少なくなった。

 

 雑誌であれば背表紙がコロコロ変わることも少なく定期購読でまとまったヴォリュ−ムがあると映えるが、雑誌は旬を手頃に仕入れる媒体だから長く大事に保管しておくものでもない。建築雑誌も様々あって何十年と継続した老舗が多い中ではあるが、時を経ったものを見返すと時代の変遷に思わず恥ずかしくなる類もあれば、流れに褪せることなく輝きを増す本物のデザインもある。

 a+uと言う名の建築雑誌、Architecture and Urbanism 建築と都市、1971年創刊、世界の建築情報を日本に向けてのみならず世界を視野に発信する日本で唯一の月刊誌である。和英併記で3割以上の購読が海外というこの雑誌、取り上げる建築事例はさることながら背表紙が良い。1996年までは月ごとに地の色を変えていたが1997年以降、年ごとに背景が一つの色で彩られている。次の年にはまた別の地の色に置き変わる。

 これにより検索がしやすい、背表紙の色と年代を見れば中身の像が浮かぶ。長い期間に貪欲に情報を得ようとした頃は月を欠かすことなく幅があるが、選り好みで薄っぺらい時期もあり自身の年代記としても眺められる。集積の中の欠落は独自の気色だ。デザインコンサルタントはマッシモ・ヴィネリ。

 

 デザインの価値は正しさで測れないのだとしても、流行や成功事例を後追したデザインは熱しやすく冷めやすい。倫理をかざす粋でない格言集。道端の小さな草花の名前を僕らはまだまだ知らない。