雑記

デザインの「力」

建物をデザインするなら、長く住まう中で飽きがこないものにしたいと思う。他に選択肢がなければ、いくら飽きようがそこに住まわざるをえないという考えもあるが、たとえ住まい手が変わったとしても、そこにかけがえのない魅力や快適性があって共感を生むのであれば、それはデザインの射程が遠くに届いたということになるだろう。

大切にしたいという気持ちが持続するなら住まい方も丁寧になるし、維持管理にも配慮が行き届く。大切にされる住まいは活き活きと生命力にあふれているし、それは住まいに限ったことでなくて身近な隣人や動植物、時によっては一枚の絵や写真や本にだって通じている。

賞味期限が持続するデザインってどんなものだろう。玄関ドア一つを選ぶにしても色んな選択肢があって、建材メーカーからは毎年のように流行を踏まえたラインナップが展開される。モダン、クラシック、和風だと様々にカテゴライズされて建物の外観にふさわしいセレクトを促す。

 

否とてもこんな限られた中には納得できるものがないなというこだわり派には素材からサイズからオーダーで製作をすることだって費用をかければできないことはない。この辺りは服や靴を選ぶ仕組みと大きく違うところはないが、ただ住まいにはたくさんのパーツがあり全てを完全に制御するのは並大抵の労力ではない。

 

ここでコーディネイトという行為が思い起こされる。素材感と色彩の関係を面積と配置のバランスを見ながらが構成するアドヴァイザーだ。デザイナーとは何が違うのだろう。限られた選択肢の中で効果を生み出す最適な組み合わせ行うことがコーディネイトだとしたら、デザインとは。

「世界と繋がっているという我々の幻想の下に潜んだ深淵を明らかにした」というカズオ・イシグロのノーベル文学賞の受賞理由を心に留めておこう。

往々にしてぼくらの暮らす世界はひとつながりだったりという思い過ごしで誤解が生じたりする。

少しづつそれぞれが違った風に自分なりに世界を受け止めているから、こんな風に世界を眺めていますという宣言は好意的に見られることもあれば、疎ましく感じられたりもする。

デザインとはこういうものだと高らかに謳いあげることは憚られるとしても、もしデザインというものに力があるなら、この起伏のある世界の中で基準となる水平線を引くことができるのではないか。緊張感ある真っ平らな面が明らかにする世界の凹凸の深度は、身近な風景やかつての記憶や不穏な未来でさえもかけがえのないものだと気付かせてくれる、ひとつの指標となる。