雑記

「暮らし」とデザイン

暮らしという言葉には限られた生活の移ろいを惜しむ気分が幾らか含まれていて、そこにデザインとの親和性を覚えている。

時計が刻む尺度としての時間は、一日を24時間に分節している。そうすることが社会を運営していく上で何かと便利だし、一年を四季に分けるのも自然の生態に適うものだ。月の満ち欠けだってある一定のリズムを刻みながら運行している。

 

けれども一日の出来事や一年を振り返った時に、やけに休日は長く感じたり慌ただしい日々は短く受け止めたりということもあるだろう。その違いは何かと考えた時、配分や比例といったデザイン上の概念がヒントになってくれる気がする。

睡眠時間を考えてみる。八時間眠ったなら一日のうち三分の一を費やしている。六時間睡眠ならば四分の一である。ここで一日の睡眠と起床している時間との配分を比例で考えてみる。八時間睡眠の場合起きている時間との比例は一対二、六時間睡眠なら一対三。単純に睡眠時間を比較したなら八引く六でたった二時間の差のようだが、一日を分母として睡眠が占める割合を比較するなら2:3になる。

 

効果という視点で見れば、八時間睡眠の場合は起床時間に対し二分の一の影響を及ぼしているのに対し、六時間睡眠では三分の一でしかない。睡眠時間を一日の活力を生み出す原資と考えれば、起きて活動してる時間に投資される力の効果は、1/2÷1/3=1.5 倍の差になるということだ。睡眠と起床の配分に意識的になることでの効果は案外大きい。

敷地面積に対し建物が占める割合を建ぺい率と呼び、行政は土地ごとの地域性を踏まえ制限を課し都市のヴォリュームを管理している。歴史的な街並みに極端なスケールを持つ建物が急に立つことがないのはそのためだ。設計者は物自体にだけでなく、余白のスペースに注視しながら計画を進める。詩人が語り得ない沈黙に意識を向けながら言葉を紡ぐように。

 

表の庭だけでなく裏庭にほんのちょっぴりの余裕を確保することで風通しの良い住まいが実現しやすくなったり、用途を限定しない遊びのスペースが室内にあることで人と人との距離感が調整しやすくなったりすることがある。その配合の匙加減は写真に写ることはないがその場所に佇むことで感じられる。

残業時間が月にどのくらいあったのかでなく、一日の中での仕事の割合に意識的であることでライフワークバランスは保たれる。選挙での一票の格差だって投票用紙一枚には物理的な差はないが、及ぼす効果の格差が示されて初めて問題の大きさが認知される。

 

人の生活に違いはあるが生きてあることに差はない。それぞれが一つの生を営んでいることに違いはないのだから。10歳の子供にも40歳の大人にも変わりなく一日は存在している。それを十年間もしくは四十年間生きたうちの一と見るかで割合としての時間は加速する。

暮れていく不可逆な流れに抗うには、ただ一瞬の美にかけがえのなさを見出す他ないか、先人から受け継いだデザインという思考の技術を僕らは暮らしの中でどのくらい活用できているだろう。