ここは本ブログでもかつて紹介させていただいた、JR辻堂駅西口のカレーと家具のお店「sii houseシーハウス」さんのエントランス。右手の白い庇下の濃紺に塗られた小窓付きの扉がカレー屋さん、左手の無骨な構造用合板による両開き扉には家具の工房、そして住居部分が奥手に配されています。先月より夜の部が開店され、夕暮れゆく変化を際立てて感じさせる贅沢な時間帯にお邪魔することができました。荒木周一郎さんと荒木遥さん、クリエイターであるふたりの感性がブレンドされたオリジナルデザインにより築60年平屋の古民家は店舗併用の住宅として再生されています。製作はお二人自ら。不要な天井や間仕切りの解体から始まり大工仕事はもちろんの事、設備や材料の選定・調達・設営まで総てのセルフビルドはもちろん驚きに値するのですが、その施工精度のクォリティの高さは建築を専門にしている私たちの目から見ても秀逸です。何度訪れても新しい発見がそこに生まれるのは、本物だけが持つ金太郎飴的な特性なのでしょう。
いわゆる建築は人が入って生活を営めるようにとても大きく作られます。また雨や風や地震に耐える安全性を担保するため、綿密に練られた計画が第三者の確認を受けて共同製作されます。計画には土地が持つ属性を読み取り、より快適な環境を長く持続させるための工夫が盛り込まれます。生活には変化があるため使っていく中で不便に思うところがあれば改良を施します。時には親しい友人や遠方の家族たちを呼んで語り合ったりもします。夜の帳に響く虫の音につつまれ床につき一日の終わりを迎えます。
尋ねたわけではないですが、おそらくこの店舗併用住宅の改修には設計図はなかったのではないでしょうか。なぜなら設計意図を伝える相手は言葉に依らずとも疏通し得る近しいパートナーだから。そもそも自分一人では扱いきれない情報量を整理し処理し共有するために設計図は必要とされます。時に実際出来上がる建物より設計図が時代を超えて文化を継承する媒体と成り得ることもあります。社会情勢で敢え無く解体されてしまう貴重な建築遺産は数知れませんが、読解力が絶やされないならば設計図に込められた良識を想像力で受信することは可能だし、時には実現したものより遥かに広く深い射程を確保し得ることもあります。二十代の頃神田の古本屋で手にした吉村順三建築図集は我が家の本棚の一番明るく取り出しやすい場所に置かれているので、窓から射す日差しに焼かれ木桟のシルエットが背表紙に転写されてしまっています。今では珍しい手書きの実施設計図面には、技術や素材の問題で現在は実現し得ないものが多くなっています。それでも吉村氏や彼の思想を実現しよう集結したとした猛者達が、経験の中で培った居心地の良さを生み出すためのノウハウがぎっしりと詰まっています。この設計図を紐解けば一本の線の振る舞いを的確に積み重ねることでしか始源にある思いは成立し得ないのだと、厳しく自身を律してくれます。戦後に住宅作家として活躍した吉村氏の建築は、箱根の小涌園が来年一月に解体の予定だったりと老朽化が進んでいるものが多いようです。
店の名前であるsiihouseを図柄として眺めてみたなら小文字のsとhouseの間にiが二つ並んでいます。shopと住まいの間に空いたその場所で、同じ景色を眺めながら肩を並べる二人の影を、構想の初期に彼らが希望を託し未来に向けたシンプルな設計図、と見るのはセンチメンタルな誤読かもしれません。