平成建設藤沢ショールームの二階オフィスにある西向きの窓を、空気の澄んだ朝に開けると視界の先に見えるのが富士山です。旧東海道に面しているのでかつては当たり前な風景だったのでしょうが、背の高い建物が少ない辻堂周辺でも空き地を縫って見通せるヴューポイントは少なくなりました。二階の窓ガラスは隣地に近いこともあり半透明なので空気の入れ替えに全開した際や、ブラインドの隙間に染み込むオレンジ色の夕映えに気付かされた時など、時折開放して垣間見たりしています。
ここに二枚の写真があります。一枚は窓際近くで撮影、広がりのある視野の中でほんの気持ちばかり中心にささやかな富士。もう一枚は、窓めいっぱいにあふれんばかりの富士。二枚とも同じ窓から同じ方向を眺めています。異なるのは室内での立ち位置、2枚目はぐっと窓から離れて撮っています。同じサイズのものを見ていてもこれほど印象が違います。
一枚目の写真では、その風景の中で富士が占める割合は非常に小さい、面積でいえばその視界に対し300分の1程度の大きさでしょう。2枚目では15分の1程度、比率で並べるなら実に20倍増となります。平面尺度上の話なので、感覚的な効果でいえば対数をとった4倍程度の印象の差かもしれません。
同じような効果を、皆様も月を眺めた時に感じたことはないでしょうか。ビルの合間に覗く月が普段より大きく見えるのは、背景にある空の広がりに対する割合の影響です。高く昇った月が遮るものない夜空に配されるのと、構築物で限定された夜空に浮かぶのとでは、その存在感は明らかに異なったとしても測ってみれば同じサイズに違いありません。
さらに延長線上にあるのが尺度としての時間、つまり速度です。小さい頃の夏休みの時間の流れ方と今の1日とを比較して、多くの方は日々過ごす時間の速度が増していると感じられるのではないでしょうか。5歳の子供にとっての夏休みの一ヶ月は、季節でみれば一生の中で5回あったうちの一度、単純に月で数えても60分の1ですが、四十過ぎの大人にとっては480分の1でしか有りません。ここでの前提が、眺める位置が変わったとしても窓は一つであるように、今を生きているあなたにとっても私にとっても分け隔てなく、生は一つであることです。この今を5分割しようが40分割しようがそれは個人の匙加減の差でしかなく、元となる原資は今ここにあるという実感ただそれだけ。
ここにある不可逆性を持って変化していく時間や空間を刻み鍋に入れ煮込み盛り付ける、デザインと料理は案外近しい行為かもしれません。私たちはデザインを通じて、一つの生を寄せては返す連続体の一部として眺め対話しえるでしょうか・・むすんでひらいて手を打ってむすんで、またひらいて・・