チェリーセージやアガパンサス、紫陽花が咲き乱れているのは土木事務所とよばれる役所の入り口脇です。計画中のマンションの道路調査のために訪れました。この日は梅雨前線が弱まってくれたおかげで東急東横線大倉山駅からの道中も苦でなくて。建物を設計するには、まず敷地にかかる様々な与条件を調べる必要があります。その情報の入手先は一つの行政にはまとまっておらず、あっちこっちと渡り歩かないと手に入りません。昨今はインターネットで検索すれば分かるものも増えてきましたが、古い履歴を遡る必要があったりすると直接窓口へ出向くことになります。
市役所のように交通の便のよい所ばかりでもないので、その道中は普段めったに歩くことがない土手沿いだったりします。それぞれの場所にいろんな人が勤めていたりその土地ならではの植生を眺めていると世界は断絶することなくつながっているという当たり前の事実にふと安心したりもします。
上野に行く折に何度も訪れる場所があります。法隆寺から皇室に献納された仏像や工芸品を収蔵展示するための施設として建設された宝物館。1999年の開館からかれこれ20年近くになりますが、経年劣化を見越した細部への配慮のためか、行き届いた手入れのためか、吟味され選ばれた素材の的確さのためか、流行に左右されないデザイン構成のためか、建物は変わらずそこに居てくれます。変わるものは囲う樹々の枝ぶりだったり、水盤に映り込む日差しの角度や、訪れる人自身に起きた変化だったりします。ある時期に何度も聞き込んだ音楽を久々に耳にしたらその当時生活していたころの時間の流れや空気の肌触りといったひとくるみが浮遊してくるように、この建物を散策すると呼び起こされる記憶があります。折り畳まれた時間の堆積を綻ばす秘められた煙。
いっときの期間机を並べ同じ環境につつまれていたかつての同僚や学友としばらく会わずにいてもその存在はそばに感じたままだ、ということがあるのだとしたら心というものの偏在は案外身近にあり得るのかもしれません。場が人に作用する力学は一体どこまで及んでいるでしょうか。私たちは空間のストックを生産し維持し手直ししていく生業に携わっています。多彩な変化に惑わされることなく息の長いデザインを積み重ねていくことは、日々のささやかな変化に目を凝らす感性の継承に繋がっていくのかもしれません。