朝の事務所周りの掃除の際に不思議な光だなあと何気なく撮った一枚の写真。駐車場の土間コンクリートの床には、駐車場を縁取るように植えられた緑の影が映っています。写真では分かりませんが、植物の背後には建物外壁のガラス面がすぐに控えていて、そのガラスに射した光の反射が日差しと異なる方向から植物を照らしているためこの影は生じています。葉叢を際立たせている背景の影は、強い日差しにもかかわらずなんだかぼやっとした輪郭をまとっています。これは幹線道路沿いに自立する平成建設の看板が落とした影です。鉄骨丸柱に支えられた看板の高さは3階程度あるため、その影が地面に辿りつくころにはその縁はぼやけてしまいます。その結果なんとも不思議な特徴をこの影に付与することになりました。この夏の日差しを溜め込んだ元気盛りの植物たちのシルエットは、このふわっとした影による「地」により繊細に浮き上がっています。
なぜこのようなことを設計者(わたしたち)は普段気にかけて眺めているのでしょう?
光を建築の素材としてどうのように扱うかは、まだまだその可能性は尽くされていないと日々感じています。化石燃料のように当分なくなったりはしないですし、今のところタダです。工夫次第で見積り書には現れない演出効果が期待されます。窓を壁のどの位置に開けるかは、使う物や材料が同じであれば金額としてはそれほど異なりませんが(厳密には手間の問題で違いがでます)、その選択次第で広がる世界には大きな違いが表れます。素材の組み合わせをパズルとして並べてゆくやり方と、厳然とした差異を生み出します。設計者による裁量の良しあしの出る幅が大きいということです。
野口里佳さんの「光は未来に届く」という写真集の表紙には、透明なプリズム(ガラスの塊のようなもの)を持つ手の影と、その影と重なるように虹状の分光スペクトルが写っています。光の中には波長の異なる様々な色の光が混ざりあっていて、プリズムを透すことで屈折率の異なりにより光は七色に分散され、そして虹が生まれます。普段私たちが見ている色は、物体が反射した電磁波を色として認識しているのですが、大半の波長の光は物体に反射されることなく吸収されて目には見えてきません。私たちが扱っているように思っている光や色にはその背景に情報量の厚みがあって、時間や季節の変化があったときその厚みがようやく垣間見えるのですが、普段はその背後に隠れた全体は意識しづらいものです。不確かな未来にまでこの光は届くのだと宣言する写真家のその独特な被写体への視線とフレーミングに学ぶべきところは多いと感じています。もし機会があれば、「鳥を見る」という素敵な写真集も手に取って見てみてください。印象的な一枚を紹介すると、浜辺で大凧をあげている人々を写したシーンがあるのですが、凧をあげている人々の視線の向きが一定の方向なのできっとその糸の先に凧があがっているのだろうけれども、フレーミングの中にその凧は決して現れないという、そんな写真です。法被をきている人々の風情からおそらく大凧だろうとの推測なのですが、それが凧であろうがあまり関係ないのでしょう。風をつかまえてうまく上がるかなという不安感と上がった時の浮き立つ高揚感が、何もない砂浜で幾人もの人々が同じ方向をただ眺めているという静かな構成のなかで際立って定着されています。このひとつのフレーミングの中には納まっていませんが確かにその先には視線を受ける存在があるのだということ、そしてそれを眺めている人々が確かにその瞬間そこにいたはずであるというリアルな手ごたえがそこにあります。
願わくは平成建設が提供している建物を訪問した人が、そこに携わった設計者が建物に籠めたデザインの意図を読み取ることで、いつ立ち寄ってもその場所にふさわしくかけがえのない建物だなと感じていただけるように、私たち設計者はデザインの判断に日々悩まされながらも、この藤沢ショールーム2階のオフィスから確信ある未来への選択を積み重ねているところです。